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【Legends of canoe sport in Japan〜vol.1〜】

「豪傑」

そんな言葉が似合う83歳は、いまどき少なくなってきたのではないでしょうか。
本田大三郎さんの語りは、とどまることを知らず、ぐっと惹きつける力強さがありました。

本田さんは、カヌースプリント競技の男子カナディアン種目日本代表として1964年開催の東京オリンピックに出場しました。
1936年のベルリンオリンピックで、正式に採用された頃から日本に普及しはじめていたカヌー競技。それから間もない1964年、自国開催のオリンピックで代表選手になるということは、文字通り、日本のカヌー界を切り拓いた先駆者でした。

日本のカヌー界の黎明期には、主に3つの異なる勢力が切磋琢磨し、また代表の座を狙い火花を散らしていたと言います。
その3つとは、自衛隊と、公務員と大学生。
自衛隊は、東京オリンピック時に、国からの要請を受け、競技大会の運営から競技への選手選出に至るまで、多くの活動を担いました。その一環で、本田さんがカヌー競技の選手としてカヌーに取り組むこととなりました。のちに本田さんが、自衛隊体育学校にてカヌー部を創部しています。
公務員とは、兵庫や長崎、沖縄などの役場の方たちです。それらの地域では、祭事としてのペーロンやハーリーと呼ばれる競り船が発展していました。地域の競り船専属で活動をしていた方たちが、カヌー種目でのオリンピック出場を目指していました。
そして大学生は、部活動から力をつけた選手たちが国内でトップレベルの競技力を蓄えていました。大正大学をはじめとして、石巻専修大学や関西学院大学など、現在カヌー部がある大学の多くは、ベルリンオリンピックや東京オリンピックの時期に創部されました。

それぞれに異なる背景や練習環境の違いを抱えた選手やチーム同士は、時にはお互いに言葉も交わさないほど火花を散らし合っていました。東京オリンピックの会場となった相模湖の練習場には、3台のモーターボートが行き交い、ピリピリとした空気が流れる中、代表候補の合宿が行われていたそうです。

本田さんは、もとは、ハンドボールの選手として高校時代に頭角を現し、日本体育大学へ進学をしました。しかし、経済的な理由で中退を余儀なくされたこともあり、自衛隊に移りハンドボールの指導を始めます。そんな折、1964年の東京オリンピックでは、ハンドボール競技の開催が見送られることとなってしまいます。それでも本田さんは、簡単にはあきらめません。カヌー競技に転向し、オリンピック出場を目指しました。
当時のことを、本田さんはこう振り返ります。
「ハンドボール競技がなくなってしまったのは残念でしたが、実際のところ、私は小さい頃に水や船にすごく密接した環境で育ったので、他の人よりすぐに乗れるようになったし、有利だったと思っていますよ。」

熊本県は八代郡坂本村(現・八代市)で生まれ育った本田さん。
幼少期には、延長100㎞を超える球磨川では、至るところで渡し船が重宝されていました。今でもよく覚えていると嬉しそうに語ってくださったのが、家庭訪問のときに先生を困らせた話。

「私が住んでいたところは、学校から、川を渡らないと家に辿り着けなかったんです。
家庭訪問の日は、普段のわるさが親にばれてしまうのが嫌でね、渡しをしてくれるおじさんに、その日だけ船を借りるんです。僕が見とくからって。それで、時間になると先生が対岸から船をこっちに寄越してくれ、と呼ぶんだけれど、僕はその船を渡すなんてことはせずに、そのまま川に飛び込んじゃって船ごと下流に流しちゃうんですよ。そうすると、先生はわたってくることができないから、向こうで地団太を踏んで悔しがっているのが見えるんです。今となってはとても愉快な時代ですね。」

目を細めながら、遠い少年時代の思い出をありありと語ってくださいました。
水に親しんだとはいえ、カヌーは、人生初めての競技。東京オリンピックまであと3年と迫ったところから、カヌーをはじめる中で、様々な驚きのエピソードが飛び出します。

「私は、自分で何から何まで作らないと気が済まない性分でね、みんなが外国製の船に乗りたがっているときに私は、自分で設計した船を国内の工房で作ってもらって乗っていましたよ。パドルも色々な形状を試したくって、ある時、かりんとうみたいにねじれたブレードのパドルだったらかじを取らなくても進めるんじゃないかと思って試しに作ってみたこともありました。結局それは大失敗だったんですけれどね。」

「結局、3つの勢力のうち、普段の生活をまるまる使って体力を鍛えている自衛隊はやっぱり強いわけで、私はカナディアンペアの代表で東京オリンピックに出ることになりました。それはもう、血反吐が出るくらい練習をしました。オリンピックの直前に、赤血球が足りないということで、どうしても入院しないといけなくなったんです。そうして、2、3日入院して休んでから、次に練習するとどうも調子がいい。入院している間に超回復をしていたみたいでした。」

オリンピックの一年前に、東京で開催されたプレオリンピックでは、並み居る強豪のなか、3位に食い込みます。この成績は、カヌー界では、日本人としては初めての快挙でした。
何重にも紙に包まれたプレオリンピックの表彰状を、大切そうに見せてくれました。

そして迎えた1964年。東京オリンピックでは、惜しくも予選敗退という結果に終わりますが、猛烈な勢いでカヌーの日本代表の座へ上り詰めていった本田さんの人生は、その後もカヌー中心の生活になり、現在もカヌーに関わって、主に3つの活動を行っています。

1つが、横須賀を拠点としたマホロバ・ホンダ・カヌースクールの運営。
目の前に海が広がる横須賀のプール。ここは、本田さんがカヌーを指導するのに最適だと考えている環境です。レスリングや卓球のように、日本人選手の競技力が高い種目には、室内競技が多いことに着目しました。カヌーも、プールという閉鎖空間での指導がまず必要なのではないかと考えています。これは、日本の国民性のひとつとして、限られた空間で管理された中で上手に楽しむことができるところから、競技力の向上へのヒントとしています。

自動車学校のように、まずは敷地内で練習し、ひとり立ちができるようになってきたら、川や海など開かれた空間で練習をする。そんな展望を持っています。
そんなわけで、プールの中を、小学生の子供たちがミニカヤックやポリ艇で漕ぎまわります。
子供たちを指導するときに気を付けているとおっしゃるのは、「カヌーだけ」ではなく、スポーツは多様性が大事だという考えをわすれないこと。
船の名称を覚えるために船のコーミングに直接「コーミング」とマジックで書き込むこともOK。知り合いの漫画家に来てもらって子供たちにお絵かき教室も開催したり、自身のサインを作らせたりしています。これらの経験は、自分がスポーツ選手として見られている意識を持つことや、自分の動作確認などにつながってくると言います。また、リズム感を身に着けるために、音楽を取り入れることもあるといいます。

2つ目には、横須賀の海を利用して、修学旅行生のカヌー体験の受け入れを実施しています。カヌーを初めて体験する中学生や高校生が、集団で楽しめるように、船の前後を括り付け、一本の大きな列車のようにして漕ぎまわったり、その学校の校歌を歌ってもらいながらリズムをとったり。また人数が多い時は、グループを分け、陸上で人工呼吸などの救急救命のレクチャーを行ったり。カヌーから派生して様々な方面で学びがあるように工夫を行っています。

そして、3つ目に最も体力的にもエネルギッシュな活動であるのが、全国行脚。本田さんの活動は横須賀にとどまらず、年間のうち半分ほどは全国を回っています。人生を通じて培ってこられた様々な人間関係から、教育やカヌーに関する講演会を実施されたり、岡山や横浜で開催し始めたカヌーレースのために足を運んだりと忙しい日々を送っていらっしゃいます。

ゆうに半世紀以上にわたる活躍はとどまるところを知らず、本田さんはとても豪快でいきいきとしています。自分がいつまでカヌーを見ていられるかわからないけれど、プール内カヌーから育った子たちがどんな活躍を見せてくれるか、これからも活動をしてみていきたいとおっしゃっていました。
カヌー界に必要なのは、「人を育てること」と力説していらっしゃった本田さん。先述のように、環境や教え方に工夫をするのは、多様な興味や、勝利以外のスポーツの価値を学び取ってほしい、そんな人を育てていきたいから。気が付くと4時間以上も、話し込んでいました。そんなエネルギーを受け取って、私たちもこれからのカヌーをつくっていきたいと再確認しました。

*本田さんの経歴*
1935年生まれ。熊本の八代郡で生まれ、幼い頃は川を渡って学校に通う。
ハンドボールで頭角を現し、自衛隊に入隊。強化選手として活動をするも、カヌーの選手に引っ張られて、日本代表として活躍。息子の本田多聞さんもレスリング競技でオリンピック出場。兄の孫が本田圭佑選手。現在は、横須賀でマホロバ・ホンダ・カヌースクールを経営し、現在もカヌーの発展に向け尽力。

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